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あれこれやった結果、心地よさを大事にして生きたいと思った

セッションで得るもの

ブログのご感想をいただきました。私も感じていたことと近い内容を書いてくださっていて、記事を書くよい機会をいただきました。ありがとうございます。

「(セッションなどで)自分のことを教えてもらうのは、その人のフィルターを通した自分を教えてもらうことになるのかもしれない」(要約)というお話で、それでセッションなどに違和感を感じるようになってきたそうです。なるほど!と思いました。

私がセッションについて(行なう側、受ける側の両方の意味で)感じていたことが2つあります。
一つはご感想と同じく、行なう側から受ける側に情報が伝わる時は、必ず行なう側のフィルターを通るということです。特に自分自身がゆらいでいると、情報をそのまま鵜呑みにしがちです。

私自身、自分のことがわからなくなって外の情報にかなり傾倒した体験があります。こうなると自分が中心にいることから外れて苦しくなります。
私の場合は少しずつ自分の中で何かが埋まっていって、外の話と自分を中心に置くバランスがとれて楽になり、自分を知るって面白いなぁと思えました。セッションで情報をもらったり、心を支えてもらったのも大事なことだったと感じています。

もう一つは自分で自分の情報をとるという点です。
外からの情報は参考にして自分で吟味すれば心強い味方です。自分の中で整理され、消化されて、自分で自分のことがわかるようになってきます。
「ほほう、そういう情報もあるんだな。面白いな。この前はこんな情報があったっけ。じゃあ私はどう感じているかな?」と面白がりながら自分の中で精査するのです。
セッションはもういいやと思った人は、自分で自分を感じたり精査できるようになったのだと思います。そのほうが面白いと思ったのかもしれません。


実は「相手のフィルターを通した自分を教えてもらう」という話も、世界に対する見方次第だったりします。この世界はすべて自分自身という見方であれば、相手も自分なので、自分が知らない自分のことを自分が教えてくれたということになります。自分では手の届かないところに彼らは行って観察して自分に教えてくれるのです。セッションに限らず、他人すべてがそうだと言えます。

自分を知ろうとするとき、他人からの情報は他人の目を通ってるだけだ、しょせん自分で探る道だからいらないとしてしまうのは分断を感じます。あなたが相手に話したことも、相手は相手自身が話したこととして受け取っているのです。このほうが広がりがあると私は思います。

クライアントさんの中には、もういいやと思ってセッションは終わったけれど、何となく話をしたくて久々に申し込みましたという人もいらっしゃいます。絶対情報を得ようとか解決しようとやっきになっているのではなく、ゆる~くお話をする中で自分に必要なものをゆる~く取捨選択している感じがします。

ゆる~いセッションってありなの?と悩みましたが、力が入っていないので「流れ」が自然で、今はこういうのがいいのかもしれないと思っています。セッションのありかたで悩んでいたのはこういうこともあったのでした。
私もクライアントさんから学ばせてもらって感謝しています。ご感想を下さったSさんもありがとうございました。